多様性の美談に酔うな
「初の女性」という枠組みが作る幻想
MLB初の女性球審が誕生したって?そりゃメディア的には食いつきやすいネタだし、SNSでも「感動した」「多様性が進んだ」って騒ぎたくなるのはわかる。でもね、そういう「初の女性」っていう枠組み自体がもう古いんだよ。結局のところ、性別や人種っていうレッテルで話題にしてる時点で、その人を「一人のプロ」として見てないってことじゃん。本質的に評価されるべきは、その球審としての判断力やゲーム運営のスキルであって、性別はどうでもいい。むしろその冠がある限り、彼女はずっと「女性初の」っていうバイアスで見られる。これって逆差別だよね。
感動ポルノ化するスポーツニュース
こういう話題って、結局スポーツの本質から外れて感動ポルノに堕してる。ストライクを正確にコールする能力なんて、訓練と経験で決まる話で、男女差はない。なのに「初」というラベルを貼って、それを大ニュースにしてる時点で、視聴者の興味は彼女の実力じゃなくて背景ストーリーに寄ってしまう。これ、野球という競技そのものにとってはマイナスだよ。プレーや判定がフェアかどうかよりも、物語性で評価されるようになったら、スポーツは終わりだ。
メディアが作る「進歩した社会」イメージの罠
多様性を免罪符にするな
多様性って、導入のきっかけは良くても、それを免罪符にすると一気に腐る。MLBが本当に進歩したいなら、性別や人種のラベルを完全に外して、「優秀だから起用しました」って堂々と言えばいいだけ。それを「初の女性」なんて大げさに報じるのは、自分たちがまだ差別的なフィルターを持ってることの証明だよ。結局、話題性とマーケティングのために利用してるだけで、本当の意味でのインクルージョンなんてできてない。
日本のメディアも同じ穴のムジナ
そしてこの現象、日本のスポーツ界やメディアでもまったく同じ。サッカーでも相撲でも、やたらと「女性初」「外国人初」といった言葉を冠して話題にする。多様性を進めたいなら、まずその言葉を封印すべきだろう。なのに「初」がつくことで視聴率やクリック数が稼げるから、メディアは絶対にやめない。つまり「多様性を推進している風」を装って、視聴者を煽ってるだけなんだよ。
本質を見抜けない観客の責任
消費者が感動ストーリーを欲しがる
こういう現象を生むのは、メディアだけのせいじゃない。観客自身が、実力やデータよりも「わかりやすい物語」を求めてるからだ。結局、大多数の人間は表面的なストーリーに乗っかって安心したいんだよね。「社会は進歩してる」と感じる材料が欲しい。だけど、その裏では何も変わってない。女性が球審をやっても、MLBの構造や審判制度は同じまま。それを理解しようともせずに「感動した」で終わらせるのは、思考停止に他ならない。
現場の選手やコーチはどう見てるか
現場のプロたちは、そんな物語性なんてどうでもいい。大事なのは、正確で一貫性のある判定と、試合を円滑に進めるマネジメント力。それさえあれば性別なんて本当に関係ない。だから、もしこの女性球審が誤審を繰り返したら、容赦なく批判すべきなんだよ。でも実際には、「女性初」というラベルがあるせいで、批判したら即「性差別だ」と叩かれる。この空気感こそが最悪だ。
「初」ブームが招く弊害
真の評価を阻害する環境
「初」っていう枠組みは、本人にとっても毒だよ。だって、何をやっても「女性だから」で説明される。成功しても失敗しても、全部が性別フィルターを通して語られる。これじゃあ本当の意味での実力評価なんてできない。そんな中で本人がどんなプレッシャーを感じるか、想像してみろって話だよ。必要なのは「初」ではなく、「一人のプロとしての評価」なんだ。
次世代への悪影響
さらに怖いのは、この「初」の連鎖が次世代にも悪影響を与えること。後に続く女性やマイノリティが、「まずは話題になるための属性」を意識してしまう。つまり、実力よりも見た目やプロフィールが重要になる世界になっちゃう。これ、本質的には逆行なんだよ。スポーツや仕事の現場は、性別や出自を超えてガチンコ勝負できる場所であるべきなのに、そこに物語を持ち込んで台無しにしてる。
「感動枠」から脱却できるか
感動枠で終わらせるな
女性初の球審という事実は、もちろん歴史的瞬間ではある。でも、これを感動枠に閉じ込めたままにするのは最悪だ。こういう話題は時間が経つと「昔そんな人いたよね」で終わる。そこから次の女性球審やマイノリティが続々と出てこなきゃ意味がない。感動を消費して終わりにするか、それを本物の変化につなげるかは、結局はリーグや観客の覚悟次第だ。
記念品文化の弊害
初めてのストライクコールのボールを大事に保管する?いいけど、それはただの儀式。記念品をありがたがるのは悪いことじゃないが、それがニュースのメインになる時点で、競技の本質からは完全にズレてる。俺から見れば、そういう象徴的なモノは「やった感」を演出するための小道具にすぎない。本当にやるべきは、その瞬間をゴールじゃなくスタートにすることだ。
多様性を数字で測れ
ストーリーよりも実績を積み上げろ
多様性を進めるなら、何年後にどれくらいの比率の女性審判やマイノリティ審判がいるのか、明確な数値目標を出せ。MLBはデータ主義なんだから、こういうところでも数字で語るべきだ。数字が出せないなら、それは単なるポーズだ。企業でも同じで、「ダイバーシティ推進」ってスローガンを掲げるだけで、中身が伴ってないケースがほとんど。
結果で黙らせろ
この女性球審が本当に評価されるのは、誤審率の低さや試合運営のスムーズさで結果を残したときだ。そこを数値で示せば、批判も擁護もすべて黙らせられる。感動やストーリーじゃなく、冷徹なデータで評価される立場になることこそが、本当の意味での「初」を超える瞬間だ。
観客の意識をアップデートせよ
属性フィルターを外す訓練
観客もそろそろ属性フィルターを外す訓練をしろ。審判を見たときに「女性だから頑張ってほしい」とか「マイノリティだから応援したい」と思う時点で、差別構造は温存される。プロとして評価するなら、判定の正確さや試合運営力だけを見ればいい。そうやって見る目を養わない限り、結局は感動ストーリー消費型の観客で終わる。
批判を恐れない空気を作れ
現状、「女性初」という肩書きが批判をタブーにしている。これが一番の害悪だ。批判されるのが嫌なら、プロの世界に出てくるべきじゃない。男性審判だって誤審すればボロクソに言われる。女性だから批判は控えようなんてやってたら、結局は同じ土俵に立ってないってことになる。真の平等は、平等に称賛され、平等に叩かれることだ。
本質的な変化は現場からしか生まれない
トップダウンの限界
リーグやメディアがどれだけ多様性キャンペーンを打っても、現場が変わらなければ意味がない。選手、コーチ、審判仲間が「こいつはプロだ」と自然に認める環境を作らないと、本質的な変化は起きない。外側からのラベル貼りや演出は一時的な話題作りにしかならない。
「普通」にするための継続
最終的に目指すべきは、「女性球審」がニュースにならない世界だ。初だから話題になるのは仕方ない。でも5年後、10年後にまだ「女性初」なんて言ってたら、それは進歩じゃなく停滞だ。普通に女性審判がいて、普通に批判され、普通に称賛される。それが当たり前になったとき、やっと多様性は達成される。

コメント